借金と破産の40年(3)

逃亡生活

唯一助けてくれた母親はいない、子供たちがいる、自分一人だけではない状況でどうするかの決断ができない時期が暫く続きましたが、当時の金融屋はそんな状態にあっても容赦なしで、追い込みをかけて来る毎日でした。

最後に出した結論が、子供たちを親類に預け自分は姿を消す事にして、当時住んでいた実家から逃亡して姿を消すことになります。

病気とも言えるギャンブル依存性による作った借金で、幼い子供に恐怖や悲しい思い、自分達を置き去りにして逃げた私への怒り等が二人にはあったことだと思います。

それから今まで1度も合うことはなく、また会う資格すらないでしょう。

もう、元気に生活していれば長男は40歳を過ぎ、次男も40歳くらいになると思いますが、もう私の先も余りない残りの人生の中で二人には合うことはない、いや会えないでしょう。

子供たちを置き去りにして、逃亡生活を始めてから約2年間大阪市内の建築現場を転々とし、日雇いのお金で 通称ドヤ街と呼ばれる簡易宿舎に泊まり住所なし、定職なしのその日暮らしの生活が続いていたある日。

 

 

拉致・監禁・強制労働

大阪のドヤ街の西成に泊まりいつものように早朝に仕事の為に宿泊を出たところで、一人のその筋らしい人物に声をかけられ「○○さんですよね、探しましたよ」と早朝の静かな街に響く声が今でも背中に寒気すら感じます。

逃亡から2年過ぎのことで、声をかれられたあとは車に押し込まれて、それからというものは2年間の利息や元金も含めた金額を払う算段をさせられましたが、そのようなあてもないために最終的には監禁、強制労働でした。

もっと若ければマグロ漁船にでも乗せられたと思いますが、和歌山の山中の現場に監禁させられ、1日食事とたばこ代としてわずかばかり支払われ現場仕事が半年くらい続きました。

 

更正のきっかけ

半年の間強制労働させられた、そんなある日珍しく1日休日が与えられて、地元に降りるチャンスができたので、この時だと思い、必死の覚悟で切符の自動販売機の行先もみずに、ただボタンを押して出てきた切符で無我夢中にきた電車に飛び乗り逃げ出しました

走り出した電車の窓から、追手の姿がないか不安と恐怖を感じながら見ていた記憶が昨日のように鮮明に写し出されます。

そんな不安な気持ちをなごませてくれたのが電車の棚に置き忘れられていたスポーツ新聞でした。

その新聞のある1面に「借金問題に困っている方、相談に応じます」との弁護士事務所の公告ではなく記事だったので最後まで読み、、、そこに更正のきっかけがありました。

 

忠告3

借金の返済で頭を抱えるあなたに

自分で作った自分の借金の為に、子供や家族を犠牲にすることは人として、親として決して行ってはいけないことです。

そんな悪い見本が今回あります。

返済で困っていてどうしようもない状態の時には必ず「甘い、簡単、即日」等の誘惑の言葉に一瞬傾くことがありますが、決して耳を傾けないことです。

その先には取り返せない大きな罠がありますよ。

 

~まとめ~

幼い子供たちを捨て逃亡をすることになりますが、神様が与えた天罰が拉致・監禁・強制労働でした。